東日本大震災 復興ボランティア
多くの方の尊い命、そして緑豊かな自然が失われた東日本大震災から7ヶ月が過ぎました。
発生当初はその他の事件が起きていないかのごとく被災地の報道が連日メディアを問わずなされていましたが、気がつくと被災地の状況が報道されることは非常に少なくなりました。
そんな状況から漠然と「復興は順調に進んでいるのだな」と思い、「今ならボランティア素人の我々でもお手伝いできることがあるかもしれない」との思いから、社内で有志を募り東日本大震災ボランティアに参加してまいりました。
ちなみにボランティア活動は宿泊地、食事、移動手段は全て自ら手配しなければなりませんのでほとんどの方が車を自走して参加しているのですが、中には滋賀ナンバーなどもあり全国から集まっているのだなと実感することができました。
ほどなく本日の作業内容が被災家屋の清掃作業である旨が伝えられすぐに現場に向かいました。
目に飛び込んできたのは被災住宅、荒れた畑、わずかな緑。
テレビの報道で目にして衝撃を受け覚悟はしてきたつもりでしたが、現実に目の当たりにするとあの映像で受けた衝撃はなんだったのかと思わざるを得ないほどの衝撃を受けました。
正直申し上げて、高速道路を降りて街中を車で移動している際には「やはりだいぶ復興しているのだな」と安易に思っておりましたが、このエリアに入ってはじめてあの震災の恐ろしさの一部を垣間見ることになったのです。 土手道だと思っていたのは電車の線路であり、荒れた畑だと思っていた中にはもともと立っていた建物が流されてしまったところもありました。
そしてわずかに残った緑である数本の木は砂防林の一部であることを知りました。
そうなのです、ここは海から1kmと離れていないエリアであり、家が、線路が、そして林1つがなくなってしまうほどの津波に襲われた場所だったのです。
家具、家電、ぬいぐるみ、写真、メモ書き、割れたガラスの破片、はがれた瓦、崩れた壁、そして大量の泥と砂。
そこに間違いなく生活があったことを想起させるものから、そこが巨大な津波に襲われたことがゆるぎない事実であることを認識させるに十分なものまで、被災家屋の中には多くのものが存在します。それらを一度表に出し、必要なものとそうでないものに分け、必要なものは持ち主に渡し、そうでないものは処分する。それだけの作業です。
ただし難しくありませんが、体力とそして何より気持ちが大切な作業だと思いました。
瓦礫の中から持ち主の大切なものを探しだす作業は、そこに大切なものがあるという気持ちがなければ絶対にできない作業です。実際にボランティア団体によってはただ家の中から瓦礫を出すだけの作業に終始し家主の思い出まで捨ててしまうという問題も発生していると聞きました。今回参加させていただいた団体はその点を非常に丁寧に気持ちを持って作業されていたのが非常に印象的で、作業の途中ながら「この団体に参加できてよかった」と感謝しました。
もちろん窓も扉も壊れてしまったものは元に戻せませんのでそのまま住むことはできません。ボランティアに清掃作業を依頼される家主の方もリフォームしてもう一度住まれる予定の方、一度完全に壊して新築を予定されている方など様々なようです。
しかし、たとえ壊す予定だったとしても最後にその家の綺麗な姿、本当の姿を見てもらいたい、大切な思い出の品を少しでも探し出して返してあげたいという思いがボランティアの皆様を動かしているのだと実感できたことは、今回のボランティア参加で得られた大きな収穫の1つとなりました。
そこにはボランティア活動を行った山元町をさらに上回って言葉を失う光景がありました。
こちらも市街地ではまだいままで通りには遠いのかもしれませんが、生活が戻っている印象がありました。
しかし、気仙沼漁港に向かう交差点を左折した瞬間、空気が一変したのです。
誤解を恐れずに表現すれば、「戦場」という言葉が最初に思い当たります。
原型がわからないほどに壊れた車、崩れた建物、海に沈んだマンション、道端に転がる船、火災で焼け焦げた工場、ひしゃげて使えなくなった信号機。
映画でしかみたことがない「戦場」がそこにありました。
しかし、それが映画のセットではなく現実なのだと思うと、何か胸にこみ上げてくるものがありました。
さらに気仙沼漁港のように、一般のボランティア団体が活動できるレベルにすら復興できていない地域があることも知りました。この現状を知った上で出来ることは何か、今一度非被災者である我々が見つめなおさなければならないのではないでしょうか。
「ボランティアに行ったことをわざわざ発表する必要があるの?」
参加したボランティア団体の団長の言葉をお借りすれば
この文書を通じてそのことが一人でも多くの方に伝わればと心から思っています。私たちも微力ながら継続的に復興活動を行ってまいります。