東日本大震災復興ボランティア|活動レポート

東日本大震災 復興ボランティア

多くの方の尊い命、そして緑豊かな自然が失われた東日本大震災から7ヶ月が過ぎました。
発生当初はその他の事件が起きていないかのごとく被災地の報道が連日メディアを問わずなされていましたが、気がつくと被災地の状況が報道されることは非常に少なくなりました。
そんな状況から漠然と「復興は順調に進んでいるのだな」と思い、「今ならボランティア素人の我々でもお手伝いできることがあるかもしれない」との思いから、社内で有志を募り東日本大震災ボランティアに参加してまいりました。

ほとんどの方が車を自走して参加
集合場所
午前9時、集合場所である宮城県山元町某所に行くと7~80名ほどの参加者が集まっていました。

ちなみにボランティア活動は宿泊地、食事、移動手段は全て自ら手配しなければなりませんのでほとんどの方が車を自走して参加しているのですが、中には滋賀ナンバーなどもあり全国から集まっているのだなと実感することができました。

ほどなく本日の作業内容が被災家屋の清掃作業である旨が伝えられすぐに現場に向かいました。
集合場所から車で5分程度、土手道を越えたエリアにある作業現場に向かう途中、思わず絶句しました。
目に飛び込んできたのは被災住宅、荒れた畑、わずかな緑。
テレビの報道で目にして衝撃を受け覚悟はしてきたつもりでしたが、現実に目の当たりにするとあの映像で受けた衝撃はなんだったのかと思わざるを得ないほどの衝撃を受けました。

正直申し上げて、高速道路を降りて街中を車で移動している際には「やはりだいぶ復興しているのだな」と安易に思っておりましたが、このエリアに入ってはじめてあの震災の恐ろしさの一部を垣間見ることになったのです。 土手道だと思っていたのは電車の線路であり、荒れた畑だと思っていた中にはもともと立っていた建物が流されてしまったところもありました。
そしてわずかに残った緑である数本の木は砂防林の一部であることを知りました。
そうなのです、ここは海から1kmと離れていないエリアであり、家が、線路が、そして林1つがなくなってしまうほどの津波に襲われた場所だったのです。
被災家屋
被災家屋からひたすらものを取り出す作業
作業現場である被災家屋に到着し早速作業に取り掛かります。私たちが与えられたのは被災家屋からひたすらものを取り出す作業です。
家具、家電、ぬいぐるみ、写真、メモ書き、割れたガラスの破片、はがれた瓦、崩れた壁、そして大量の泥と砂。

そこに間違いなく生活があったことを想起させるものから、そこが巨大な津波に襲われたことがゆるぎない事実であることを認識させるに十分なものまで、被災家屋の中には多くのものが存在します。それらを一度表に出し、必要なものとそうでないものに分け、必要なものは持ち主に渡し、そうでないものは処分する。それだけの作業です。
ただし難しくありませんが、体力とそして何より気持ちが大切な作業だと思いました。
瓦礫の中から持ち主の大切なものを探しだす作業は、そこに大切なものがあるという気持ちがなければ絶対にできない作業です。実際にボランティア団体によってはただ家の中から瓦礫を出すだけの作業に終始し家主の思い出まで捨ててしまうという問題も発生していると聞きました。今回参加させていただいた団体はその点を非常に丁寧に気持ちを持って作業されていたのが非常に印象的で、作業の途中ながら「この団体に参加できてよかった」と感謝しました。
被災家屋
被災家屋からひたすらものを取り出す作業
作業開始からおよそ5時間、全てのものを取り出し、必要なものとそうでないものに仕分ける作業が完了したころには、並行して行っていた高圧洗浄機による清掃作業や周囲の草刈作業も完了し被災家屋をが見違えるように綺麗になりました。

もちろん窓も扉も壊れてしまったものは元に戻せませんのでそのまま住むことはできません。ボランティアに清掃作業を依頼される家主の方もリフォームしてもう一度住まれる予定の方、一度完全に壊して新築を予定されている方など様々なようです。
しかし、たとえ壊す予定だったとしても最後にその家の綺麗な姿、本当の姿を見てもらいたい、大切な思い出の品を少しでも探し出して返してあげたいという思いがボランティアの皆様を動かしているのだと実感できたことは、今回のボランティア参加で得られた大きな収穫の1つとなりました。
翌日、震災の影響や復興の状況を知るため、被害の大きかった気仙沼市へ視察に向かいました。

そこにはボランティア活動を行った山元町をさらに上回って言葉を失う光景がありました。
こちらも市街地ではまだいままで通りには遠いのかもしれませんが、生活が戻っている印象がありました。
しかし、気仙沼漁港に向かう交差点を左折した瞬間、空気が一変したのです。
誤解を恐れずに表現すれば、「戦場」という言葉が最初に思い当たります。
原型がわからないほどに壊れた車、崩れた建物、海に沈んだマンション、道端に転がる船、火災で焼け焦げた工場、ひしゃげて使えなくなった信号機。
映画でしかみたことがない「戦場」がそこにありました。
しかし、それが映画のセットではなく現実なのだと思うと、何か胸にこみ上げてくるものがありました。
被害の大きかった気仙沼市 打ち上げられた漁船
被害の大きかった気仙沼市 漁港
被害の大きかった気仙沼市 工場
被害の大きかった気仙沼市 建物
被害の大きかった気仙沼市 工場
被害の大きかった気仙沼市 アパート
被害の大きかった気仙沼市 バス
被害の大きかった気仙沼市 車
震災復興ボランティアへの参加および被災地の視察を経て、「東日本大震災」がテレビの中の出来事ではなく現実に起きた未曾有の大災害であることをあらためて実感することができました。そして半年以上が経過し報道されることが少なくなっていても、復興はまだまだこれからで、一時期はある種ブームのようになって人が集まりすぎて逆に被災地で迷惑になってしまったとも言われているボランティア活動も、ブームがさったように人が集まらなくなり復興が進まないという現実も知りました。
さらに気仙沼漁港のように、一般のボランティア団体が活動できるレベルにすら復興できていない地域があることも知りました。この現状を知った上で出来ることは何か、今一度非被災者である我々が見つめなおさなければならないのではないでしょうか。
「半年もたってボランティアなんてやることあるの?」
「ボランティアに行ったことをわざわざ発表する必要があるの?」
中にはこのような意見をお持ちの方もいらっしゃると思います。 ボランティアの参加を公表することには賛否両論あることは覚悟していますし、自分も実際に現地に行くまでは同じような感覚がまったくなかったとは言い切れない一人です。しかし、現地に行くことで初めてわかることがあるということを知り、だからこそそのことを少しでも多くの方に伝えたいという思いから、あえて記すことにいたしました。
参加したボランティア団体の団長の言葉をお借りすれば
「2万人が命を落とすという悲しい事故が1件起きたわけじゃない。1人の方が命を落とすという悲しい事故が2万件も同時に起きたのだ。」
被災地ではまだまだボランティアが不足しています。特別なスキルがなくても人並みの体力と気持ちがあればできる作業はたくさんあります。一軒の清掃作業に数十人でとりくんでも半日かかる作業があり、それを待たれている被災者の方、被災家屋はまだまだたくさんあります。
この文書を通じてそのことが一人でも多くの方に伝わればと心から思っています。私たちも微力ながら継続的に復興活動を行ってまいります。